遺書博物館 胡蝶の夢


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管理人お気に入りの遺書その2


1915(大正4)年


人世を嘲る

1915年8月上旬、慶應大学生が兵庫県明石町大倉谷村にある八幡神社裏から下り列車に飛び込み轢死した。携帯していた手帳に上記の文が書かれていた。

※元の記事に従って大倉谷村としたが大蔵谷村の誤植の可能性あり

(東京朝日新聞1915.8.10朝刊)


1918(大正7)年

海の洗礼

これは1918年の1月、伊豆航路の汽船から投身した男性の遺書である。和歌山県出身、享年26歳。

一体全体、彼の身に何が起こったのか出典の本にも詳しい事は書かれていない。しかし、狂気と理性の狭間で揺れる書き手の心情が巧みな文章によってひしひしと伝わってくる。

「強い意志を持って生きろよ」テレビドラマなどで、自殺願望を抱いた人間に対してこんな言葉が投げかけられるのをよくみる。しかし、この人物にそんなありきたり叱咤激励が通じただろうか?何せ、当人は意志なんかじゃどうにも出来ないものの前でたじろいでいるのだ。意志や理性の脆さを前提に思案を巡らし、 決断するその態度も十分に意志的かつ理性的と言えよう。

「永らえばー、死すれば」の一節も印象的だ。あからさまに嘲笑したり罵ったりしないまでも、自殺はダメという道徳観を持ちながら、一方で精神的に病んだ人を見下している人間なんか世の中に結構いそうじゃないか。

人の二面性について考えさせられる。

(中村古峡著「自殺及び情死の研究」p260)


1926(大正15)年1月



父の遺訓


1895(明治28)年、日清戦争で清に勝利した日本は、台湾を統治下に置いた。その翌年、台湾総督府の命により大阪と台湾を結ぶ航路が開設されると、砂糖や米、綿製品を乗せた船が両地を往き来するようになった。1924(大正13)年に就航した扶桑丸もその一つであり、客船としても活躍したその雄姿は今でもネット上で拝むことができる。

1926年1月22日早朝、門司を出た後台湾へと向かっていた扶桑丸の甲板で縊死を遂げた男性の遺体が発見された。この男性は45歳の綿糸貿易商だった。フロックコートを着用し、小さなトランクを持った洋装で、一等船客として乗船していた。知人に宛てた手紙があったので係官立合のもと開封したところ


遺訓。

人生の目的は幸福に生活するにあり。幸福なる生活をなさんとせば不断の努力を必要とする。人間は文明に弄ばれて、如何に奮闘努力するも幸福を得られぬこともある。父記す。


などと認めてあった。

努力してもどうにもならないこともある、うむ、この世の真理ですな。彼が命がけで子に伝えた言葉は今を生きる我々にとっても重い教訓なのだ。

(遺書本文:山名正太郎著「日本自殺情死紀」p140)

(概要:東京朝日新聞1926.1.23朝刊)



5月



身は死すとも


僕の身は死しても心霊は藤江の身を離れないそして藤江の兄を恨む、母も恨む、終わりに藤江も恨みたい気もする、しかし愛が勝っているやうだ、お願いだから一緒の所に葬ってくれ、藤江もさう思ってくれ、僕は今酒を飲む


1926年5月9日午後2時頃銀座松屋呉服店八階の屋上から背広服を着た青年が飛び降り車道と歩道の間に落下した。所持していた手帳から品川に住んでいた28歳の男性と判明、上記の遺書は内縁の妻とその家族に宛てたもので、手帳に万年筆で綴ってあった。達筆な文字だったという。

(東京朝日新聞1926.5.10朝刊)


11月



旅の男


みなさんこの醜い社会を改良してください、旅の男より


1926年11月23日午後7時15分ころ20代とおぼしき男性が大森駅付近で東京発横須賀行の列車に飛び込んで自殺を遂げた。

農業大学の制服を着ており、上記の遺書を懐中していた。

(読売新聞1926.11.24朝刊)



1927(昭和2)年4月



うまれたまま


1927年4月6日午後5時頃、東京の石神井村を流れる石神井川で二十代後半位の男性の溺死体が発見された。

不思議なことにこの遺体、丸裸だった。

彼は身に纏った物全てを脱ぎ捨て死に臨んだのである。その遺書には


ハダカデウマレタジブンハ

ハダカデシンデユク



と認められていた。

(東京朝日新聞1927.4.7朝刊)


11月



憑依宣言


1927年11月20日(※)9時18分東京日暮里で貨物列車に飛び込んで自殺を遂げた男がいた。年齢は30歳くらい、側に身分不相応な上等の高下駄が置いてあった。また、空袋に


私は馬鹿だ この下駄は かへします

杉村○次郎畜生め 死んでからとりついてやるぞ


と書いてあった。

(東京朝日新聞1927.12.1夕刊)

※他の記事が事があった翌日には報じていることを考えれば、20日とあるのは30日の誤植だろうか?



12月



紙には収まらない怒り


1927年12月1日午後5時頃、東京池袋の雲雀谷踏切を通過中の東上線寄居行列車に飛び込んだ若い男性がいた。検死の結果、身元が判明、自宅の壁やたんすに墨で黒々と


おれは死ぬ、馬鹿だ、勝手にしろ、怨んでやる、川○よし子の奴


などと書いてあった。

(東京朝日新聞1927.12.2朝刊)


1928(昭和3)年6月



夢うつつ


1928年6月4日午前3時頃、信越線上り上野行き列車内で服毒自殺を遂げた男の遺体が発見された。容貌から25歳くらいの学生かと思われ、長野県から乗り込み上野行きの切符を所持していた。傍らに


総ては永遠に夢と去りゆく


と走り書きした遺書があった。

(東京朝日新聞1928.6.5夕刊)


酔狂


1928年6月5日午後8時頃、東京府王子上十條の踏み切りで浴衣を着た30歳くらいの男性が電車に飛込み死亡した。

遺体を調べると奇妙なことに性器が根元からなかった。身元を特定する手がかりとなるような所持品はなく、遺体は町吏に引きとられたが


酒を飲め


と書いた紙片を所持していた。

(読売新聞1928.6.6朝刊)



1929(昭和4)年



最後のおねだり


1929年10月24日朝、長野県下諏訪の諏訪湖岸に男の下駄と遺書があるのを通行人が発見し、警察に通報した。状況からして諏訪湖に投身したものと思われ、すぐに捜索が開始された。その遺書には


水清き諏訪湖に入って死ぬ、道行く人よ、十七日を想ひだしたらこの湖岸へ線香をあげてくれ


とあり、文末には東京市神田区神保町の住所が書かれていた。

当時の新聞記事の見出しは「虫のよい遺書」。全くその通り、見ず知らずの人に線香をせがむとはかなり変わっている。

書いた人はちゃっかり者だっだのか?

(東京朝日新聞1929.10.25夕刊)


1930(昭和5)年



悪魔の囁き


俺は生死の境を彷徨し一度は死線を越えた事を喜んだがしかし不幸なことには血みどろになつたこともあるが生きんとするものの幸ひを知る心を俺は持たない、お前は死ぬのだと悪魔は囁きつづけている、俺は何故死なねばならぬか?この問題に対しての回答を書くべきか否かに相当迷ひ考へてみたが矢張り世の中の習慣に従ひ書くことにした


1930年5月28日午後二時半頃、東京府麹町区にある丸の内ビルヂング、通称丸ビルから飛降りた者がいた。八階の窓から飛降りたため頭蓋骨が粉砕し即死、丸ビル初の投身自殺者となった。

警察が調べた結果、死者の身元が判明、麹町に下宿していた24歳の明大生であった。

所持していたハトロンの封紙二枚に上記の文が書かれていた。また、文末には


この遺書は最初の発見者に贈る


とあった。

(読売新聞1930.5.29朝刊)



1933 (昭和8)年



5月



永久の呪い


おれは人として最後まで人を怨み人をのろはないとつとめたがおれの魂は永久に藤原一家をのろふであらう、永久に永久に彼は社会の悪魔だ、怨みのろふ


1933年5月14日午前10時頃、伊豆大島三原山で三人組が相次いで火口に飛び込んだ。投身したのは5.6歳位の男児を引き連れた男女で、一家心中と思われた。

前日に一家が宿泊した島内の旅館に遺された十数点の所持品を見るに良家の者かと思われた。上記の遺書は手帳に認められていたもの。

宿帳には「保坂」という苗字と札幌の住所が書かれていたが、該当者を見つけ出すことはできなかったという。偽の住所氏名だろうか?

(東京朝日新聞 読売新聞1933.5.15)



コンプレックス


1933年5月下旬、伊豆大島三原山での投身自殺流行を受けて火口内部を探索していた新聞記者が岩の上に若い男性の骸が横たわっているのを見つけた。遺体の身元はすぐに判明、青森県出身の17歳になる少年だった。日本橋区にある文庫紙店で働いていた少年は5月16日の朝


自分は身長が短くてなぜ人と同じに生れなかったのかつくづくなさけなくなった

御両親様



と書いた手紙を残して家出していた。少年の家族は新聞社の取材に「背の低いことを気に止めている様子はなかった」と答えている。また、勤務先の店主も「背の低いことを苦にしてはいたがそれ程思いつめているとは思わなかった」と証言している。往々にしてデリケートな悩みは親しい人にも相談しずらいものだ。

(読売新聞1933.5.31夕刊)



9月

  
穏やかな絶望


僕は死によって自分の中のあらゆるシニカルなるものを絶つ、目の見えない機械道具が押し進めてくれる通りに僕が演じている雑色の芝居を僕はぼう然として或ひは憂うつな感動を覚えながら最後まで守るだらう、今風の様なおだやかな絶望の中に居る、そしてもうよさう、いまだ死ねない者のいふことなんか本当にしない方がいい、それに僕もこれ以上、滅亡のリズムを綴りたくないから

        三三、九、汽船中にて


1933年9月8日午後5時20分頃、学生服を着た青年が制帽と上衣を遺して三原山の火口へ飛び込んだ。上衣のポケットの中に身分証明書があり身元が判明、第一高等学校三年の二十歳の青年だった。手帳を破った紙に上記の文が書いてあった。

(東京朝日新聞 読売新聞 1933.9.9)


11月


コンプレックス2


兄さん、僕はどうしてこの様な小男なんでせう、小男なるが故に何処へ行ってもひけ目を感じます、この様な事を兄さんに申し上げてもこれは無理ですね長い間厄介になりました、御恩返しもせず僕は死の道を選びました、僕は片輪です、今生の死を以て凡てを清算して来世は必ず立派な体格の所有者となって国家のために努めたいと思って居ります


1933年11月22日正午頃、伊豆大島三原山の火口付近に高笑いをあげている男がいた。「こんなところで死ぬ奴は大馬鹿者だ。」しかし、そう言って笑っていた当人が間もなく火口へ飛び込んで、火口見物を楽しんでいた他の観光客たちを驚かせるのである。

兄と奉公先の主人に宛てた遺書があり、板橋区にある荒物店で働いていた31歳の男性と判明した。

自殺した男性は、至って真面目な性格で、16歳の時から同じ店で働いていた。

そのかいあってか、店主のすすめで嫁をもらうことになり、二度の見合いをしたが四尺七寸十二貫(約142㎝ 45㎏)の低身長が祟って破談していた。その上、急性結核を患ってしまい将来を悲観したらしい。

三原山では、同年の3月14日にも友人に「小男扱い」されて傷付いた青年が火口へ飛び込む寸前で保護されている。

背の低い男性が蔑まれた時代だったのか?

時代背景を鑑みれば日本の対外政策が強硬になっていく時期であり、とかく男性には逞しく勇壮であることが求められたに違いない。それを裏づける様に文中にも「立派な体格」「国家のため」の語が出てくる。

1909年生まれの作家、村上信彦氏は「近代日本の恋愛観」において、この時代の空気を「皮肉に言えば、まじめに本を読みふけるやうな学生は危険であるとともに不良であり、遊び歩いている学生は安全であるとともに善良だったのである」

(p133)と評している。

元気が良ければ、あるいは身体が丈夫ならば中身は問わない活力至上主義ってことか・・・。

身長が低いからといって体力がないわけではないだろうが、世間は「立派な体格」とは見なしてくれない。平均よりも背丈が小さいというだけで肩身の狭い思いをしたのだろう。

(東京朝日新聞1933.11.23)


1934(昭和9)年



3月



果物の皮に…


1934年3月4日午後2時頃、淀橋区にある住宅で二十歳の青年が天井の梁に麻紐を吊るして縊死しているのが発見された。

死んでいたのはこの部屋に下宿する学生で、部屋にある机の上に置かれたネーブルの皮に


新しい天国、一九三四、死、さようなら


とナイフで彫りさらにインクを染み込ませてあった。先に紹介した様に、壁やタンスに書いた者がいれば、彼の様にオレンジの皮に書く者もいる。死を前にした最後の一文とあれば、奇抜なこともやってのける。

遺書の世界は思いのほか奥が深い。

(東京朝日新聞1934.3.5朝刊)

4月


1934年4月2日午前5時ごろ、神奈川県鎌倉町長谷観音前に住む60代の女性占い師が自宅の井戸に飛び込み自殺を遂げた。

遺書には、


鏡で自分の人相を見ると頓死の相があるので、知らぬところで死ぬより自分の家で死んだ方が幸福である



・・・云々とあった。

(読売新聞1934.4.3夕刊)



時代に乗り遅れた男


1933年の2月に女学生が火口へ飛び込んで以来、伊豆大島の三原山は大勢の自殺志願者が押し寄せ大繁盛。後へ続けとばかりに次々と火口へダイブしたのだった。新聞もそんな盛況ぶりを報道し、まさしく時流であった。先に紹介した三原山での自殺者たちも時代の流行に乗った死にかたをしたといえる。

しかし、せっかく大島までやって来てもそれをしない者、出来ない者もいたようだ。その一例を紹介しよう。

1934年4月18日午後二時頃、伊豆大島海岸の松林の中に学生服を着た男の縊死体があるのを通行人が発見した。警察の調べによると死後一時間くらい経過しており、容貌を見るに10代後半かと思われた。所持品の中央公論に遺書が挟んであり


火口へいかれないので時代遅れのブランコをして申譯ない


とあった。

(読売新聞1934.4.19朝刊)



1935(昭和10)年



八重子よ、今行くぞ、君も一年間淋しかったであらう、僕も淋しいあぢきない日を送って来た、一年忌も近づいたねこれから元のやうに二人で楽しく遊ばうね


1935年10月11日、午前0時をとうに過ぎた真夜中の東京で、あるタクシー運転手が若い男を乗せた。乗客の指示に従い、私娼街として有名な玉ノ井付近から鶴見へとタクシーを走らせる。

ところが、である。車が神田区金澤町あたりまで来ると、急に乗客が苦悶し始めたではないか。驚いた運転手は万世橋署員と協力して客を病院へ送り届けるも、客は服毒しており間もなく絶命した。上記の遺書の他に両親と実兄に宛てたものがあった。

(読売新聞1935.10.12夕刊)



1936(昭和11)年



1月



聖なる儀式


一月十七日書き置きする暇もない、花子の魂と私の魂がいま一つになる、一分の時も争ふ


現在、主要都市に整備され多くの人々の足となっている地下鉄。日本初の本格的な旅客用の地下鉄は1927年、浅草ー上野間に開通した。

それから10年にも満たない1936年1月17日のこと。午前10時ごろに地下鉄日本橋駅北方五十メートルの地点で電車に飛込んで死亡した男性いた。黒の背広と黒のオーバーを着ており、年齢は30歳くらい。名刺数枚と手帳一冊を所持し、上記の文はその手帳に書かれていた。

当時の新聞記事によれば彼は日本の地下鉄初の飛込み自殺者である。

(読売新聞1936.1.18夕刊)


3月



墓地で死んだ男


1936年3月9日正午頃、東京下谷区にある谷中墓地で男性の縊死体が発見された。

外見から推測して30代後半、洋服の内ポケットにあった手帳に


玲子殿、私は強く生きることは出来ません、主ある御貴女をおしたひ申す私の心を御察し下さいそして私を許して下さい

八日



と書いてあった。

うーん、なんだかメロドラマを見ているようだ。この時代はこういうことが実際にあったらしい。時の流れを感じる。

(東京朝日新聞1936.3.10夕刊)


5月



地獄への旅立


1936年5月21日夜十時ごろ上野公園清水堂供物所で男の遺体が発見された。建物の梁に帯をかけ首を吊っていたのである。身元を調べてみると府内で働いていた20代の青年だった。その遺書に


皆様、わたくすは地獄にまいります、

わたくすは本統に悪い男ですた、

自分でもちくづくさう思います


と認めてあった。

(読売新聞1936.5.22朝刊)


懺悔


1936年5月27日午後5時25分ころ山梨県池田村で男が列車に飛び込み、胴体が真っ二つ割れた骸と化した。風貌から推測するに20代半ばの学生かと思われたが

身元判明の手がかりとなるような物はなかった。線路の傍に小石を乗せた遺書があり、


そんなことは知らなかつたがこんなことになってしまつた僕が悪かつたから天国へ行つて懺悔する上○とし子様


と書いてあった。

(読売新聞1936.5.29夕刊)


8月



馬鹿だから・・・


1936年8月11日朝、荒川放水路堀切橋下の貸しボート場に一人の少年がやってきて、ボートを借りた。しかし、水上を漕ぎ出した少年が戻ってくることはなく、操縦者を失った小舟だけが水面に浮かんでいたのだった。ボートの中に職工帽と


僕はやっぱり馬鹿、死なねばなりません


と書いた遺書があり、投身自殺したものと見られた。自転車から、下谷区の金属商で働いていた18歳の少年と分かった。

(読売新聞1936.8.12夕刊)



12月



未来への不安


毎日意味のない生活が良心を責めその日を送ることが恥ずかしく将来を思ふとき不安でたまらないです


1936年12月29日の朝、三原山の火口付近に背広や眼鏡、カメラなどが置いてあるのを登山客が発見、警察に通報した。落とし物の持ち主は間もなく判明、地元の旅館に宿泊した後、行方をくらませた24歳の青年だった。旅館に遺していた手提げの中に友人に宛てた遺書があった。上記はその一節である。

(読売新聞1936.12.30朝刊)


1937(昭和12)年



4月



神を恐れず


自殺するものは決断心の強いものか?


単純なものか?どちらかである、


俺は神は恐れないが科学を恐れる


1937年4月30日三原山八合目の山林で服毒自殺を遂げた男性の遺体が発見された。警察が調べたところ牛込区に住んでいた27歳の青年と判明した。胸の病を患い将来を悲観したらしい。

(読売新聞1937.5.1朝刊)


5月



首相を凌ぐ


1937年5月22日午前10時頃、牛込区にあるアパートで41歳の男性の遺体が発見された。服毒した上、押入れの下からガス管を引き入れて自殺していた。遺書が二枚ありそこには

現在の自分の心臓は林首相より遥かに強いと云へる、何も悲観しているのではないが生きていても仕方がないから死ぬ

(二十一日夜十時記)



湯に入つているのだから、湯灌の必要はない

(十二時記)


と書いてあった。

自殺者は死の半年ほど前からこのアパートで暮らしていた。広島県出身で、長崎の学校を卒業して以来、職場を変えつつも働き続けていたが、死の間際には求職中だった。

(東京朝日新聞1937.5.23夕刊)

6月


不幸な男


1937年6月5日午前5時頃、板橋区の路上で20代前半の男性の服毒自殺体が発見された。法被を羽織っており、大工のような服装だった。


俺程不幸なものはない、恋に破れたから死ぬ


と書いた遺書を所持していた。

(東京朝日新聞1937.6.6夕刊)


1938(昭和13)年



3月






1938年3月26日午前3時40分ごろ東京浅草の貸し座敷楼で客の男が馴染みの娼妓と無理心中を図った。男は荒川区に住む22歳の円タク助手、相手の娼妓とは数回顔を合わせるうち互いに同情し合う仲となり道連れにしようとしたらしい。青酸カリを溶かしたビールを娼妓にも勧め二人一緒にあの世へ行く算段だったが、異変に気付いた娼妓はビールを吐き出したため助かり、男だけがあの世へと旅立ったのだった。


世の中が厭になつた、死ぬわけはビールの泡にきいてくれ


と書いた宛名のない遺書があった。

(読売新聞1938.3.27夕刊)


5月



幻の女


僕には一昨年から一人の女性がありました、女性の名は知りません。雪子と書きませう二年前の今日(十七日)女が突然自殺をしました、その時僕も一緒に死なうと思ひました


1938年5月18日東京府大森区に止宿していた21歳のメッキ職工は自室で青酸を服毒し自殺を遂げた。上記は彼が工場主に宛てた遺書である。


(読売新聞1938.5.19夕刊)



1958(昭和33)年




1958年7月25日午前10時半頃、東京の山手線、新宿ー渋谷間を走る貨物列車に20代半ばの女性が飛び込んで命をたった。現場の線路わきにゲタと


お世話になりました


と血で書かれた皿があった。

以前、タンスや果物に遺書を書いたケースを紹介したが、これもそれに匹敵する変化球だ。しかも血文字。

しかし遺書の内容自体はエキセントリックなものではなく他人への礼の言葉であり、書き手の真面目さを思わせる。そんな人が、こういう行動をとってしまうとは、よほど辛い目にあったのだろうか。

(東京朝日新聞1985.7.25)



1960(昭和35)年



贈り物


1960年11月10日、11時頃、神奈川県横浜市内にある交番に一通の手紙が届いた。手紙には「失恋と生活苦から自殺する」とあり、明らかに自殺の予告だった。警官はすぐに差出人の住所へ向かったが、差出人はすでに睡眠薬を飲んで死んでいた。

差出人は横浜市内の家に間借りして住んでいた大学生で、遺書には


私の角膜はアルバイトで知り合った栃木県日光市の△河電工日光精△所病院内池○稔さんにあげて下さい


と書かれていた。その希望どおり同日午後には横浜市大病院で角膜を取り出す手術が行われた。

(東京朝日新聞1960.11.11朝刊)


1962(昭和37)年



不屈の男


1962年1月10日午後10時過ぎ、東京都大田区内の民家で遺体が発見された。死んでいたのはこの家に下宿していた31才の男性で、ふとんの中に入り睡眠薬を飲んで自殺していた。手帳には


もう一度やってみる。こんどは狂言とは思われたくない


と書いてあった。失敗しても諦めずに何度でもトライ!彼は不屈の意志でついに目標を達成したのだった。

(東京朝日新聞1962.1.11夕刊)



1973(昭和48)年



不可解な死


本気で自殺する気です。わたくしにも原因がわからない


1973年9月7日午前10時頃、山梨県東八代郡に住む当時中学三年生の少女が、自宅の柱にヒモをかけ首を吊って死んでいるのを家族が発見した。

少女が詩を書き綴っていた大学ノートに上記の文が書いてあった。

(東京朝日新聞1973.9.8朝刊)


1981(昭和56)年



アウトな人生


1981年4月5日、午後6時頃、千葉県船橋市内の競馬場のトイレの中で男性が死んでいるのを係員が見つけた。

警察の調べによると男性の年齢は50才くらいで、裸の電気コードをガムテープで左胸に貼りつけ換気扇のコンセントに差し込み感電死していた。また、赤のサインペンで


おれはお馬で人生アウト。もしできたら医学用に使ってください


と書かれた競馬新聞も見つかり、競馬で身を持ち崩した末の自殺と見られた。

(東京朝日新聞1981.4.6夕刊)



1984(昭和59)年



哲学の成就


自殺こそ唯一の哲学。死ぬのは怖いことじゃない


1984年2月5日午後2時頃、東京都練馬区内のアパートで男性の遺体が発見された。死んでいたのはこの部屋に住む22才の明治大学生で、訪ねてきた実兄がふとんの中で死んでいるのを見つけた。警察が調べたところ頭にかぶったポリ袋の中にプロパンガスのホースを引き込み窒息死しており、室内の棚に置かれていた封筒の中に上記の遺書があった。

(東京朝日新聞1984.2.6夕刊)

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