詩歌集
辞世の句や詩を紹介します。
1886(明治19)年
明治の暴走老人
1886年の春、東京神田区に住む御年76の老人が冥府へ旅立った。東京府士族だったこの老人は針医を生業とし公債証書を七百円も所持していた。しかし、妻子はいないので、財産を残してしまえば後から他人が使うに違いなく、それを嫌がったようだ。死ぬ二三年前から娼妓買いを始め、たちまち七百円を使い果たした。後に残るはこの身一つ、上記の辞世を認めた後、台所で首をくくり全てにケリをつけたのである。
(読売新聞1886.4.3朝刊)
1896(明治29)年
旅支度
1896年7月30日午後11時30分頃、東京上野で走行中の列車に飛び込み、鉄路の上に無惨な姿をさらした青年がいた。右肩から頭部にかけて切断された亡骸を見れば年の頃は27.8、懐中には四銭二厘と上記の辞世が書かれた遺書があった。
(読売新聞1896.8.1朝刊)
1898(明治31)年
厭世狂人
1898年8月下旬、東京府小石川区に住む21歳の職工は内縁の妻に用事を言い付け外へ出したあと台所の梁に縄をかけ首を吊って死んだ。
死者は、もともと内気な性格であったが物価の高騰により家計が苦しくなったことでふさぎがちになっていた。紙片に上記の時世が認めてあった。
(読売新聞1898.8.31朝刊)
1907(明治40)年
水底に眠る
1907年8月17日、長野県更級郡青木島を流れる犀川に男性の遺体が漂着した。その風貌から年齢は26.7、学生か教員と推測された。
シャツのポケットには女性が写った写真が入っていた。この詩はその写真の裏に認められていたもの。
自然に憧れ同化しようとする作者の強い思いが伝わってくる。
(東京朝日新聞1907.8.27)
1917(大正6)年
美に憧れて
戦前、信州の浅間山と言えば九州の阿蘇山と同様自殺の名所だった。特に火口へ飛び込む者が多かったようだ。
1917年6月下旬、若い男が独り山頂へと登って行ったきり、戻って来なかった。
その数日前、東京赤坂に住む18歳の少年が外出したまま消息不明となっていた。親友に送った手紙の内容が上記の通り遺書めいたものであったこと、その消印が小諸であったこと、山頂で行方をくらませた男と服装や年齢が似通っていることからどうやらこの少年が浅間山で命を絶ったものと見られた。
少年は油絵に打ち込む芸術家志向で、浮世離れしたところがあったようだ。
生前、死ぬならば人目につかぬ所が良いと口外していた。
(読売新聞1917.7.2夕刊)
1918(大正7)年4月
この世の悲しみ
神奈川県馬入川(相模川河口)付近の鉄道で自殺した少年は次のような狂歌を懐中していた。
1919年7月6日の正午頃、徳島県那賀郡立江町に住む煙火師が自宅に近い小山に登った後、左手に握り締めた煙火用の火薬に火をつけ自殺した。
死者は日露戦争に出兵しており、金鵄勲章を貰っていたので町の人々にも信頼されていた。いうまでもなく感動詞としての「はい」と灰がかけてある。勲章の厳めしさに反してユーモラスな辞世である。
(高田義一郎著「自殺学」p83)
1924(大正13)年
大学教授はロマンチスト
1924年4月5日午前1時米原駅構内で26歳の男性が鉄道自殺を遂げた。このサイトでは無名の人々の遺書を紹介しているが、このケースは少々違う。死者の父は政友会所属の政治家であり、一時期は文部大臣や大蔵大臣も務めた。
その息子である当人も京都帝大に入学した秀才で卒業後は大谷大学で教授としてドイツ語を教えていた。
また、西洋哲学の研究に取り組み、ケルゲゴールに関する著書は現在も哲学愛好者たちから高い評価を得ている。
動機は詩を見てもわかる通り女性がらみである。
(遺書本文:山名正太郎著「日本自殺情死紀」p191)
(概要:読売新聞1924.4.6朝刊)
(その他参考資料:大谷大学HP)
1926(大正15)年
須磨の海に消えた男
自殺の大罪をおゆるし下さい。
死ななければ生きる事を知らない私。昨日ちつた花の行方がフト気になって尋ねて行きたい様な気分になったのです。
海はおだやかだ。
私はヂット
指紋をみつめてその流れに
寂しく崩れた。
急に浪が荒くなった
白い舌を噛んでくる
私はのまれるやうに
よろよろと立ち上がった。
今は早かくてもあらぬ吾身かも静かに足を水に運べり。
さらば君ひとり逝く身をあはれめよ潮の響絶えもせぬ間に。
恋は楽しい、恋は醜い。
それらは皆嘘だ。
矛盾ー挫折ー異端ー左傾
人間に不忠実な人々は無理な形式と乱暴な類型から算出して唯私を鞭打つ事に余念がなかった。そしてついぞ本質な私の心を流れてゆくあるものの姿を見出ださうとはしなかった。
上記は1926年5月、失恋が原因で神戸須磨の海に身を投げた青年の遺書である。戦前の須磨は自殺の名所として有名で、1928(昭和3)年には一年間に67人もの自殺者と127人の未遂者がいる。
(山名正太郎著「日本自殺情死紀」p213)
1933(昭和8)年
8月
なめくじと星
1933年8月21日午前、伊豆大島の三原山上に火口へ向かって静かに手を合わせている若い男性がいた。しかし、次の瞬間、彼は思わぬ行動にでる。急に二三歩後ずさったかと思うと、突如火口目がけて飛び込んでしまったのである。
この男性は島根県出身の大学生でこの日の朝来島、自殺者の霊を供養するため線香を携えて山を登った。悲劇が起こったのはその線香に火をともし火口へ投げ入れた後、合掌していたまさにその時だった。
死の背景には養家とのモメごとがあった。「家」の存続が重視された昔の日本において例え地方の農家であっても養子は珍しくはない。しかし、濃い血縁である実の親子どうしであっても関係がこじれてしまう場合も無くはないのだ、まして血のつながりが薄ければ…
彼の場合も養父母との間に問題を抱えてしまった。幼少の頃、親族の家に養子として迎えられ、はじめのうちこそ可愛がられたが養母が死に後妻が男児を産むと家の中に彼の居場所はなくなった。地元の中学を卒業したあと独り立ちすることになり親友のつてを頼り上京、下宿先から大学に通った。それでも、養家との関係が完全に切れたわけではない。勉学に励みながらも、養家に色々と義理立てしなければならず、神経をすり減らした。そんな折、養家から来た手紙の内容が彼の心を一層追い込んだようだ。それ以来近親者にそれとなく死別の言葉を漏らすようになり周囲は警戒していた。そして、冒頭の惨事が起きたのである。
ひとすぢの線を残してなめくぢのはかなく逝きぬ春の朝
小夜ふけて夜の窓ひらくわがために星よ今宵の恋人となれ
彼が三原山五合目にある茶屋の芳名録に書きのこしたのがこの二首。草木が青々とした葉を広げる八月の山には似合わぬ退廃的な歌である。
(読売新聞1933.8.22朝刊)
11月
土に還る
水青み落葉土に還る、湖畔の秋旅行かば我思ふ憂なし、悠々白雲の如し
1933年11月22日富士山麓の名所、母の白滝付近で青年の遺体が発見された。その傍らにはカルモチンの空箱が三つあり、所持品の日記帳には東京牛込区の住所と上記の辞世が書いてあった。
(東京朝日新聞1933.11.23)
1934(昭和9)年
春きたれども
1934年3月14日午後二時頃、東京浅草にある待合茶屋で紙屋の長男が猫いらずを服毒、同日夜十時に還らぬ人となった。
原因は親からもらった商売の資金三百円を遊行に使い果たしたため。
そんなドラ息子が死の前に詠んだ一句が、コレ。
春来たれどもさかず散り行く我が身かな
享年26歳、短い人生であった。
(東京朝日新聞1934.3.15朝刊)
1935(昭和10)年
夢と消える
毎夜に流す涙故、今宵も曇る月の影、送りし文に答へなく、消えゆく夢の淋しさよ
浅草のチケット店で働く27歳の青年が恋をした。しかし、相手の女性が何処の誰かはわからない。ただ道ですれ違うだけだからだ。是非ともお近づきになりたいっ!懸命に彼女の住所を探り出しラブレターを書いたが、待てど暮らせど返事は来ない。嘆き悲しんだ彼はついにカルモチンを飲んで死んでしまう。死ぬ前に遺したのがこのロマンチックなポエムだ。
ちなみに、彼がせっせと書いて送ったラブレターは彼女の父親が押収していたそうな。
(東京朝日新聞1935.6.26夕刊)