遺書博物館 胡蝶の夢


遺書博物館 胡蝶の夢


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このページでは管理人お気に入りの遺書を年代別に紹介します。

※遺書の文中に出てくるフルネームは、管理人の判断で一文字伏せ字にした。

ただし「現代病に斃る」では筆者の氏名を掲載しました。



1907(明治40)年


世を恨む

1907年10月22日午前6時頃、東京市内の芝公園で男性の遺体が発見された。樹の枝に帯を掛けて首を吊っており、その外見から24.5歳の書生かと思われた。

懐中には半紙があり、鉛筆で上記の遺書が書かれていた。

明治36年の5月に一高生の藤村操が日光の華厳滝に身を投げて以来、「煩悶青年」という言葉がメディアを賑わせた。

この遺書にも内面的な苦悶や葛藤を言い表す「煩悶」という言葉が出てくる。彼もまた「煩悶青年」の一人なのだ。

(読売新聞1907.10.23朝刊)


1908(明治41)年


匿名希望

1908年7月10日午後6時頃、山形県東置賜郡赤湯町の石切山上で短銃自殺を遂げた青年の遺体が発見された。書生のような服装に、所持品は実弾入りの箱と一冊の本、それと上述の遺書のみ。死ぬ前に山形県内の旅館に宿泊しており、警察は宿帳に記入されていた東京麹町の住所と名前を手掛かりに身許をわりだそうとしたが、該当者はいなかった。偽の住所氏名だろうか。

これもまた「煩悶青年」の遺書である。


(東京朝日新聞1908年7月21日)


1912(明治45)年

現代病に斃る

1912年3月16日午前二時半頃東京品川で松良三平さん(24歳)が鉄道自殺を遂げた。日頃から小説や詩を読み耽っていた彼は文学を志し故郷大分から上京。働きながら学校に通い、積極的に雑誌に投書していたが、なかなか掲載してもらえずやがて心身ともに病的傾向を示すようになった。

上記の他にも友人知人に宛てた遺書がいくつかありそのなかの一つに「僕の遺書ののっている新聞は二三種国へ送って下さい」と書いてあった。

小説や詩は明治以降、悩める若者を惹き付けた。彼もその一人だったわけか。どんな世界でもそうだろうが、目標を達成して名をあげるものもいれば、どんなに努力しようが無名のまま消えていくものもいる。もちろん、芽がでなければ、諦めて別の道を行く者が大半だろうが、彼のように命を落とす者もいる。そう考えると、なんだか切ない気持ちになる・・・。

作家として名を上げられなかった彼にとってはこれも一つの作品だったのだろう。ということで自殺者の氏名もそのまま掲載させて頂いた。

(東京朝日新聞1912.3.17朝刊)


1913(大正2)年

恨み重なる

1913年1月4日午前4時頃東京市内の芝公園の共同便所で男性の縊死体が発見された。右の袂の中に上記の遺書があった。

(東京朝日新聞1913.1.5朝刊)

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